9月月報

9月

長時間労働やパワーハラスメントなど、労働環境が劣悪な「ブラック企業」が何かと話題になっている。テレビドラマのように“倍返し”出来ない社員の不満は募っているのだ。

しかし、私は「コンプライアンス」という言葉が使われるようになってから企業での不満は増えてきたように感じている。

もちろん法令の順守や犯罪行為については論じるまでもないが、「セクハラ・パワハラ」のなかには、「そこまで細かく指摘されたら、人間関係が息苦しくなる」と感じることも多い。

酒好きの論理かもしれないが“酒宴社会”が、人間関係の潤滑油であることは確かで、アフター5で学ぶことも多い。

このように「ブラック企業」といっても、所詮は個人の感じ方によるところが大きいのではなかろうか。要するに、「適当な人と神経質な人」は“感受性”が違う。

適当な人間だからであろうが、私が仕事で息苦しさを感じることが少ないのかもしれない。

さて、クレームの現場は社会の縮図である。これまで数多くのクレーマーに対峙してきたが、そのなかで感じるのはグレーゾーンの拡大に歩調を合わせるように、社会全体がどんよりした雲に覆われつつあることだ。

たとえば都会のラッシュアワーでは、サラリーマンが「ひたひたと押し寄せる不安」や「破裂寸前の不満」を抱えながら、諦め顔で先を急いでいる。私には、彼らがモンスター予備軍に見えてくる。

「モーレツ社員」は死語になって久しいが、それに代わって「格差社会」が聞き慣れた言葉になってしまった。そして、その背後からは「無縁社会」が顔をのぞかせる。

社会から孤立し、組織からは使い捨てのように扱われる人々を「ビニール傘」にたとえることもできるだろう。コンビニや100円ショップでは、安価なビニール傘が売られている。天候不順の季節には重宝するが、大切に扱われることは少ない。拾得物を管理する警察によれば、傘の落とし物を引き取りにくる人は1%にも満たないという。

出張などで飛行機に乗るとき、空港までは雨除けのためにビニール傘を差していても、機内に持ち込むのは面倒なので、わざと空港ロビーに置いていかれる。

しかし、そんなときは妙に心がざらつくのではなかろうか。躊躇なく使い捨てにされるビニール傘と、ぼろぼろになって置き去りにされる自分がオーバーラップするからだろう。

私は、警察として治安維持に取り組み、民間人としてハードクレームに悪戦苦闘するなかで、否応なく自分自身の生き方や社会のあり方にも目を向けることになった。そこには、トラブルやクレームを乗り越えるためのヒントも隠されているように思う。

 

誰もが自分が可愛い。「ビニール傘のように、気安く使ってください」こんなふうにうそぶくことはできない。

では、ビニール傘のような扱いを受けないためには、どうすればいいのか?

それは、「骨」のしっかりした人間になることである。そうすれば、たとえ「向かい風」や「突風」に見舞われても簡単に壊れることはない。そしてタフな代物であることがわかれば、周囲からも大切に扱われるはずである。

しかし、「言うは易く行うは難し」の如く、人は安きに流れやすい。はじめは理想や信念をもっていても、いつの間にか変節してしまうことがある。

現状に100%満足している人は、まずいない。多かれ少なかれ、社会や組織、上司や部下に不満を抱いているはずだ。それが怒りや嫉妬、あるいは不安という負の感情と結びつくと、人間性をゆがめてしまう。そして、あらゆることに対して批判的になり、人間関係も狭くするだろう。この「負の連鎖」に陥ると、やがて心のタガが外れ、常軌を逸した行動に出てしまう。

不満をためて、会社や上司のせいにして逆切れしたり、内部告発する人もいる。しかし、その多くは結果としてうまくいかない。いくら粋がって正義の味方を気取って見せても、骨が折れたビニール傘にすぎないのである。

ものの本によれば、人は「人材」「人財」「人在」「人罪」に分類できるという。人材を磨いていけば人財になるが、失敗を恐れてなにも行動しなければ、ただそこにいるだけの人在になり、悪事に手を染めれば人罪になる。

しかし、この境域は思いのほか狭いのかもしれない。善良な市民がモンスターに変身するのと同じように、簡単に人生の道を大きく踏み外してしまうことがあるのではなかろうか。