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5月月報

●被害者意識

心理学者によると「こうあるべきだ。こうなってほしい」と期待しているのに思い通りにいかないときに、人は“怒りが生じる”と言う。

忙しいスピード化した社会においては、老若男女に関係なく「相手を思いやる余裕がない」。

このように、いつも自分の目線で自分中心のストーリーしか考えないことが、些細なことで怒りがこみ上げてキレやすい社会の構図になっているのである。

自分中心を社会的に考えれば、身勝手でいつも“被害者意識”を持っているということ。強すぎる正義感も考えもので、「白か黒、正しさにこだわり過ぎない」ことが重要である。

「相手が加害者で私が被害者、あいつが黒で私は白」ではなく、相手には相手の事情があり即時に黒と断定できない。何が正しいかはそれぞれの事情があり、“絶対的な黒・悪”ではない。

結局のところ感情的になった方が社会的には評価を下げるので、落ち着いて冷静になりながら、相手と折り合いをつけて行くしかない。

被害者と言えば、ひったくりに遭うのは、圧倒的に高齢の女性が多い。老化によって視力や聴力が衰え、身近なリスクに気づかないことが多いからである。振り込め詐欺やなりすまし型の詐欺被害者も高齢者ばかりだ。田舎の老人の防犯意識は薄く、銀行のATMに並んでいると老婆が暗証番号を「31●●」などと口ずさみながら現金を下ろしていた。現場に居合わせた私にできることと言えば「被害にあわなければいいな」と願うしかなかった。

ところが最近、若い女性が「老婆」となって、危険に身をさらしているケースが目立っている。

たとえば、携帯電話で友人と話をしながら暗い夜道を歩いている女性――。友人とのおしゃべりで一時的に恐怖心を紛らわしているのかもしれないが、通話に気をとられ、結果的に周囲への警戒がおろそかになっている。これでは、視覚も聴覚も70代、80代の老婆並みであり、自ら暴漢を招き入れているようなものだ。

イヤホンで大音量の音楽を聴きながら、一人歩きをしている場合も同じである。背後から迫る自転車やバイクの音にも気づかないだろう。

●「迷惑な人々」が目の前にいたら?

社会生活を営んでいると、「自己中心的な困った人」に遭遇し、不快な思いをすることはしょっちゅうである。

「列に割り込む」「路上にゴミや吸い殻を捨てる」「道幅いっぱいに広がって歩く」「赤信号になっても強引に進入してくる」「メールやゲームをしながら歩いたり、車や自転車を運転したりする」「電車の席で足を組んだままで間を詰めない」……。こんな場面を目にしたとき、あなたならどうするだろうか?

「ルール違反は許せない」と毅然と注意する?

正論であるが、思わぬ反撃を受け、事件やトラブルにつながる危険性をはらんでいる。

では、なにも言わないで無視するのがいいのだろうか?

これでは、トラブルは避けられるが、「理不尽な相手」と「姑息な自分」に腹が立ち、ストレスがたまるだろう。

私の答えは「いきなり行動しない」「一呼吸(氣を)入れる」である。いきなり行動すると、思わぬ事態を引き寄せかねないからだ。逆ギレされて、刃傷沙汰になるかもしれない。相手を諫めるのは、私の怒りが収まってから、冷静な自分を確認してから。即、行動しなくても、その迷惑な人は、いつか、どこかで社会的な制裁を受けることは間違いない。

 

以前、こんなことがあった。

ある地方都市で開かれる講演に行く途中の出来事である。少し、時間の余裕があったので、駅の書店に立ち寄ると、近くにいたサラリーマン風の男性の様子がどうもおかしい。それは気配でわかったというしかないが、さりげなくその男性を観察すると、若い女性のスカートの中を隠し撮りしていた。

私はとっさに男性を警察に突き出してやろうかと思ったが、そんなことをしては講演に間に合わなくなる。逡巡したが、氣(一呼吸)を入れてから男性に近寄って低いトーンでささやいた。

「ふざけたことをするな!」男はちらりとこちらを見た途端、脱兎のごとく逃げ去った。

盗撮犯を交番所まで連行するのがベストかもしれないが、このときは、これがベターなやり方だったと思う。

つねに白黒を決めようとし、一歩も引かない態度には気持ちの余裕がない。じつは、そこが“トラブルの火種”でもある。

一歩下がったり、立ち止まって事態を見守ったりすることで、攻撃をかわし、次の一手を勢いよく打つことができる。

「平常心とは常に平らな心でいること」“感情のコントロール”これが、私のリスクヘッジである。